東北新幹線はやぶさ

帰省途上で筆を執っている。

 

新幹線での帰省は一日仕事である。

まず朝起きて、子供たちの口に朝飯をぶち込んだ後は荷造りをする。

ぶち込むというのがポイントである。

ブレックファーストなどという余裕は微塵もない。

いかに機械的に、効率的にケロッグのチョコクリスピーを

口に運んでもらうかだけを考えて、食事する。

そして忘れものに細心の注意を払いつつ家を出る。

 

いつも通勤に使っているのは西荻窪なのだが、休日は中央線が西荻窪を非情にも通過するため、

「これは…違うんだ。つい出来心で…。

 休日に会えないお前だって悪いじゃないか!」

といった、西荻窪との間の昼ドラ的修羅場の妄想を抱きつつ

吉祥寺へ向かう。それもタクシーで。思えば遠くへ来たものだ。

 

盆暮れの東京駅は戦場である。

基本的には田舎者の東京人が、一挙に故郷へ旅立つのである。

有象無象でごった返すこの戦場においては

兵糧の確保や衛生環境の保持が困難となる。

そこで、盆暮れマスターの我々家族は、吉祥寺を拠点とする。

吉祥寺のスーパーで新幹線内での飲料とお菓子を買い込み、

トイレはここが最後だという気迫をもって用を足す。

 

このように、様々な工夫を凝らし、津軽マンイントーキョーは

新幹線に乗り込んだわけであるが、

この新幹線の車中というのは実に趣深い。

東京から仙台までの間は、なんとなく東京都民の

洗練されたというか世知辛いというかそんな雰囲気がある。

ところが、仙台で客の入れ替えがあると、

途端に、野暮ったいというか、人情味があるというか、

人の気配も変わってくる。

東京都民はグループで乗ってきても、だいたい行儀よくコソコソとお話ししているが、

仙台以降に乗車する面々は、乗った座ったそのタイミングでプシュッである。

 

今の私はどちらだろうか。

無駄なものを剥ぎ落し、つるつるになった冷たい私。

変わらないまま、凸凹の形の温かい私。

 

実際の私は、つるつるになりたいけど中途半端に凸凹が残っていて生ぬるい不快な温度なのだと思う。置かれた環境や人間関係の中で両者の間を行ったり来たりしながら、いびつなままこれからも過ごしていくのだろう。

 

それでも軸足は常に、新幹線に乗ったらすぐプシュッとする、そんな世界に置いていたいと思うのは、これから五所川原で家族や友人と会える楽しみに包まれているからなのだろうか。

 

さっきプシュッとしたオヤジが横切った。うわっ酒臭っ…Majiで前言撤回する5秒前。