東北新幹線はやぶさ

帰省途上で筆を執っている。

 

新幹線での帰省は一日仕事である。

まず朝起きて、子供たちの口に朝飯をぶち込んだ後は荷造りをする。

ぶち込むというのがポイントである。

ブレックファーストなどという余裕は微塵もない。

いかに機械的に、効率的にケロッグのチョコクリスピーを

口に運んでもらうかだけを考えて、食事する。

そして忘れものに細心の注意を払いつつ家を出る。

 

いつも通勤に使っているのは西荻窪なのだが、休日は中央線が西荻窪を非情にも通過するため、

「これは…違うんだ。つい出来心で…。

 休日に会えないお前だって悪いじゃないか!」

といった、西荻窪との間の昼ドラ的修羅場の妄想を抱きつつ

吉祥寺へ向かう。それもタクシーで。思えば遠くへ来たものだ。

 

盆暮れの東京駅は戦場である。

基本的には田舎者の東京人が、一挙に故郷へ旅立つのである。

有象無象でごった返すこの戦場においては

兵糧の確保や衛生環境の保持が困難となる。

そこで、盆暮れマスターの我々家族は、吉祥寺を拠点とする。

吉祥寺のスーパーで新幹線内での飲料とお菓子を買い込み、

トイレはここが最後だという気迫をもって用を足す。

 

このように、様々な工夫を凝らし、津軽マンイントーキョーは

新幹線に乗り込んだわけであるが、

この新幹線の車中というのは実に趣深い。

東京から仙台までの間は、なんとなく東京都民の

洗練されたというか世知辛いというかそんな雰囲気がある。

ところが、仙台で客の入れ替えがあると、

途端に、野暮ったいというか、人情味があるというか、

人の気配も変わってくる。

東京都民はグループで乗ってきても、だいたい行儀よくコソコソとお話ししているが、

仙台以降に乗車する面々は、乗った座ったそのタイミングでプシュッである。

 

今の私はどちらだろうか。

無駄なものを剥ぎ落し、つるつるになった冷たい私。

変わらないまま、凸凹の形の温かい私。

 

実際の私は、つるつるになりたいけど中途半端に凸凹が残っていて生ぬるい不快な温度なのだと思う。置かれた環境や人間関係の中で両者の間を行ったり来たりしながら、いびつなままこれからも過ごしていくのだろう。

 

それでも軸足は常に、新幹線に乗ったらすぐプシュッとする、そんな世界に置いていたいと思うのは、これから五所川原で家族や友人と会える楽しみに包まれているからなのだろうか。

 

さっきプシュッとしたオヤジが横切った。うわっ酒臭っ…Majiで前言撤回する5秒前。

時計じかけのオレンジ

正しいシステムを求めすぎている。

今の仕事に就いて、10年が経つ。いろいろな仕事をいろいろな人としてきた。そんな中で私が感じる疑問がこれだ。

思い出して欲しい。中学校のクラスを。
私のようないたって真面目でさわやかで、「はつらつ15才賞」を受賞する少年もいれば、カバンがぺしゃんこに潰れ、ボンタンを履いたやつ、ちょっと嫌なことがあると学校に来なくなるやつ、「ふたりエッチ」を学級文庫と言って持ってくるやつ。国語の時間に「案の定」の意味を問われると、「あんのじょうはしらないけど、うちのおじいちゃんは、のろかんのじょうだよ」と答える猛者もいた。
髪にワックスつけては水道の冷たい水で洗い流され、柄物のTシャツを着ては着替えて来いと家に帰され、遅刻もしまくっていた。
正しいと言われる生き方をしてるやつなんか一人もいなかった。でも、そんなクラスは最高に楽しかったし、素敵だった。

でも役所に勤めて、施策の検討をしていると、いつもターゲットは堅実で合理的で合法で抑制的で…要するに、学級委員長や生徒会にいるような人たちばかりなのだ。
補助金の申請は締め切りまでに用紙に間違いなく書ける。働けばずる休みも遅刻もしない。法律の条文名を書けばインターネットで検索するし、URLのリンクを張ればパンフレットも自費で印刷する。

そのターゲットは、テストの前日に徹夜で麻雀をしたり、ストームと叫びながら寮内を深夜に徘徊したり、原付を違法駐車で止めてバイトに行き、日当以上の罰金を取られたりはしないのだろう。

しかし…そんな奴いるか??友人はみんなそんなマトモな人生は送っていない。良くも悪くも。そしてそんなことができるような人達に出会ったならば、私はできる限りお付き合いを避けるようにして生きていただろうと思う。

おそらく、役人があまりに真面目で、マトモな社会の上澄みで生きてきた人たちばかりだからなのだろう。これは実感を込めて。
だから、あらゆるシステムには正しさが求められる。ズルする人間や非合理的行動をする人間は排除される。当たり前に正しい選択ができ、必要な下準備をする人たちだけが想定されている。
これではどんどん制度を使うものと、まったくかかわらずに生きていくものとの間に大きな分断が生まれていく。同じように、働いて税金を納めているのにも関わらず…

このようなことを言っているだけでは何にもならないのだが、少なくとも私は、世の中にはアホも馬鹿も真面目も不真面目も、キチガイもエロも、実直も勤勉も、金持ちも風俗嬢も、ヤクザも証券マンも、同じように暮らし、その中で苦労しながらもがいているのだ、ということだけは常に忘れないでいたいと思うのである。

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主人公はイカレている。
こんな奴いたら困る。
でも服装がイカシている。音楽の趣味もいい。

こんな奴が地元にいたような気もする。
しかし、イカレている。
でも最終的には、イカレているのは社会だとわかる。
主人公の罪は消えないが、彼だけが罪深いわけではない。


簡単に言うとそんな話だが、とにかく観てほしい。
何十年も前の映画とは思えない新鮮さがそこにはある。
ただ好き嫌いは分かれると思うので、
嫌いでも、私のことは嫌いにならないでほしい。
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さんざん真面目なことを書いたような気がするのだが、
まあ、要するに、この文書の中で覚えておいてほしいのは、
その昔、私が「はつらつ15歳賞」という
最も15歳に与えてはいけないネーミングの賞をもらい、

多少やさぐれたという歴史的事実である。

 

 

Polaris「深呼吸」

ASUSのパソコンがぶっ壊れた。
ディスプレイの真ん中4分の1ほどにブラックアウトする状態だ。
カスタマーサービスに連絡する。チャット形式だった。やりとりが非常にサクサクで好感が持てる。
しかし、このチャット、いやにレスポンスが良い。AIなのか、対人でものすごい知識を持った人が向こうにいるのか区別がつかない。
仮に対人だとすれば、その人は毎日、わたしのような無知なユーザーの要領を得ない要望に逐一光速で対応しているのだろうか。頭が下がる。時給は?お休みは?と見えない相手の心配をしだしたところで、チャット上に理解不能な文字が浮かんだ。
「サポートセンターにお電話願います。」
私の30分ほどをどうか返して欲しい。

電話するのは億劫だったのでASUSショップに行くことにした。赤坂見附駅のショップはとてもお洒落で待ち時間なく対応してくれた。対応者は外国人だったがとても日本語が上手だった。
預かって検査してくれることになった。彼の時給はいくらだろうか。

その後サポートセンターからメールが来た。なんと、製品価格の60パーセント以内の商品と交換してくれるらしい。ASUS神。会社の利益が心配になった。

その後1週間しても音沙汰なく、こちらからメールしてようやくあと2週間以内には送ると連絡が来る。

そしてさらに2週間が過ぎた頃、私は会社の利益がなくなれば良いと思うようになったが、穏やかなメールを送った。すると返信があった。
「すいません1週間以内に発送します。」
今日送れ今日。その言葉は飲み込んだ。

僕は飲み込む。
何気ない一言で傷ついた時。
ささいな約束が守られなかった時。
飲み込んで吐き出すために、音楽を聴く、映画を見る、小説を読む。
「いろんなことがあるねぇ。」
それはまるで深呼吸のように、飲み込んだものを吐き出すために。


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https://music.apple.com/jp/album/%E6%B7%B1%E5%91%BC%E5%90%B8/76587106?i=76585927

Polarisの曲にドラマはない。淡々と日々を過ごす曲ばかりだ。だからこそ、毎日でもいつまででも聴いていられる魅力がある。
深呼吸はその中でも僕が永遠に聴ける曲の一つだ。
タラスタラタラスタラのリズム、「晴れのち曇り時々雨そんな時は深呼吸して」という主題、アルバムのジャケット、その全てがリラックスさせてくれる。
なんか疲れたなーと思ったら聴いてみて欲しい。
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1週間後、ダンボールが届いた。ASUSの皆様の益々のご健勝とご発展をお祈りした。

 

Family

Family

 

 

 

奈良を離れるにあたっての挨拶

ご報告、ご挨拶がたいへん遅れましたが、
3月31日付けをもって奈良県庁を退職し、
4月1日より総務省消防庁で勤務しております。

この2か月間、赴任初日からの国会対応や引っ越しのもろもろの手続きで
とてもバタバタしておりましたが、
ようやく生活も軌道に乗ってまいりました。

ただやはり、毎朝満員電車に揺られていると、
近鉄奈良駅を出て奈良県庁へ向かう道すがら
毎朝シカがお出迎えしてくれていた毎日が
とても恋しく感じます。

奈良での三年間は、本当に公私ともに充実した
思い出深い三年間でした。

奈良県赴任中に生まれた長女はもうすぐ
三歳になり、今では口も達者になって
父は毎日文句ばかり言われております。

妻も子供も、本当に奈良の穏やかな日々と
暖かい人柄を気に入っていて、
この夏は私を置いて、妻と子供だけで
奈良に遊びに行く計画も立てているようです。

私自身の三年間を振り返ってみると、
本当に得難い経験をさせていただいた三年間でした。
数え上げればきりがありませんが、
特に思い出深いのは、
赴任初年度に大立山まつりの創設に奔走したことです。
たくさんの皆さんとお話しして、
本当に夜中までお付き合いいただいて、
準備に明け暮れました。
リハーサルで大立山を動かして、
太鼓の音を聞いた時の感動は
今でもはっきりと思い出します。
あの経験のおかげで私自身とても
成長させていただいたと思います。
いまだ賛否両論ある祭りですが、
ぜひ、暖かい目で見守っていただければと思います。

それから、観光事業で富裕層相手の戦略を
進めていったことも忘れられません。
社寺の皆様やホテル事業者の皆様と
あーでもなこーでもないと新しいサービス・商品
について議論したことは、本当に楽しい経験でした。

最後の一年は財政課で、県政全般を眺めさせていただきました。
各部局の皆さんととてもよく議論させていただく一方で
何とかワークライフバランスを確保しようと努めた一年でした。
たくさんの皆様にご協力いただき、なんとか大過なく
予算の編成を終えることができました。
教育予算の充実の一端を担うことができたことは
とてもうれしく思います。

本当に県庁はじめ各市町村の皆様、社寺の皆様、
観光関係所業者の皆様、そしてプライベートで
お付き合いいただいた皆様に暖かく迎え入れていただき、
支えていただいたおかげで、無事に過ごすことができた
三年間でした。

新しい業務は、消防団の活性化に関する業務で
また少し毛色の違う業務ですが、
いつかまた、奈良のお役に立てるお仕事につく
機会もあると思います。
そのときには全力を尽くさせていただきますので、
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

家族ともども東京で元気にやっています。
皆様もお体にお気を付けください。
奈良での三年間、本当にありがとうございました。

安倍文珠院

私は生まれた時から阿部だった。
自分が阿部であるということを認識したのは
幼稚園のお誕生日会の時だった。
比較的奥ゆかしい性格の私は、お誕生日会で自分の名前を高らかに宣言することが
とても恥ずかしいことであると感じていた。
そして特に理由もなく、私はなぜ「阿部」なのかという
あらぬベクトルの悩みを抱え、なんの落ち度もない両親を恨んだものだった。

阿部という苗字を分析してみる。
まず、バリエーションが豊かである。
「阿部」「安部」「安倍」の三大アベが拮抗した勢力争いをしており、
健全な競争性を有している。

なかなかに偉人も多い。
安倍晋三首相をはじめ、野球界の阿部慎之助、文学界の安部公房
歴史上の人物では、阿倍仲麻呂安倍晴明と錚々たるメンツである。
外国人にも「アベべ」さんがいる。
なお、アヴェ・マリアの「アヴェ」は「こんにちは」という意味らしい。

また、ほどよい配置である。
あなたの周りに「アベさん」はいるだろうか。
おそらく学年に一人というレベルでいるのではないだろうか。
このだれでも一人は「アベさん」の知り合いがいる程度の配置が
じつにちょうどいい。

そして、ストーリーもよい。
東北地方には「阿部」が多い。
これは、平泉の奥州藤原が滅びる際に、
逃げ延びた人々が故郷をしのび、その地名である「阿部」を
名乗ったといわれている。
私の父も祖父も、我が家の家系図を辿っていくと、
奥州藤原にたどり着くと信じている。おこがましいことだが。

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「阿部」という地名は、現在の奈良県桜井市に残っている。
その中心には「安倍文珠院」がある。

安倍文珠院の起源は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が645年に安倍一族の氏寺として建立した「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)であるとされている。
本堂と文珠池の中に立つ金閣浮御堂が印象的な美しい境内である。
静寂な空間につつまれ穏やかな気持ちになる。
駐車場付近に売店があり、土産物を販売している。
なぜか、焼き立てパンも売っている。

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安倍晴明もこの地で修行されたとされ、金閣浮御堂内には晴明由来の寺宝がたくさんある。
陰陽師にまつわるエキセントリックな代物もあるので必見である。

 

本堂に安置されている、文殊菩薩様は快慶の作であり、日本三大文珠の一つに数えられている。

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獅子にまたがる文殊菩薩様は、優しい顔の中に秘める知性を感じさせる、
非常に美しい仏像である。

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写真で見るとなかなか伝わらないが、かなり大きい。
脇侍がおおむね等身大だと思っていただくとイメージがわくだろうか。
この文殊菩薩様を前にすると、すべてを見透かされたような気持になり、
うしろめたいことは、金輪際やめてしまおうという決意をさせられるような気がする。
なお、私にうしろめたいことがあるかどうかという議論は、3光年先に飛ばしておく。

拝観の際には必ずお寺の方が、文殊菩薩様の由来やご利益を説明してくれるが
このお話がたいへん分かりやすく心に残る。また、拝観に先立ってお抹茶の振る舞いがある。

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「らくがん」というお菓子が添えられているのだが、それが絶品である。
立ち寄る際には、十分に時間をとって、ごゆるりと拝観してほしい。

ご住職(「アベさん」ではない)の話の中で、
「今もなお、安倍文珠院は地域の方々の駆け込み寺であるので
24時間門は開けておくんです。」というお話があった。
奈良時代から変わらず、安倍文珠院は地域の中心なのである。
奥州藤原氏が夢見た故郷は、今もなお、往時の面影を残し、そこにあった。

今現在アベさんの方も、かつてアベさんであった方も、
これからアベさんになる方も、
アベのルーツを感じるために、一度は、安倍文珠院の文殊菩薩様をお参りしてはいかがだろうか。

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今では私はすっかり「阿部」という苗字を気に入っている。
というか「阿部」であることの影響をどっぷり受けている。
プライドに近いものかもしれない。
人の名前にはそういう魔力があるような気がする。

青森には「阿保(あぼ)」という苗字もある。
高校のチームメイトである賢い巨人も阿保だった。
一字違いだがなかなかの違いである。

自分が阿保であったらどういう人生だったかは分からない。
しかし、「阿部」であってよかった。特に理由はなくそう思うのである。

鴨都波神社のススキ提灯献灯行事

 

※以下には30歳手前男子の過去の思い出に浸るオチのない文章が含まれていますので、閲覧される際は有意義な内容を期待せず、批判することのない生暖かい気持ちでご覧ください。

 

僕の生まれた町に小さな神社がある。

僕は部活が休みの日に夜な夜なランニングに行くと称してその神社に通っていた。部活が休みの日までトレーニングするなんて、両親はさぞかし勤勉な息子だと思ったことだろう。勤勉で優秀で優しくてイケメンで非の打ち所がない息子なのは間違いではないが、部活が休みの日にランニングに勤しむほどマゾヒスティックではない。

神社の近くには中学校の同級生の女の子が住んでいた。

神社の脇の小高い丘の上で待ち合わせをしては、好きな音楽の話や高校生活の悩みなんかを話した。

中学時代に特段仲が良かったわけでもなく、あまり話をしたこともなかったが、ひょんなことからそんな夜の密会をするようになった。

恋に恋い焦がれて恋に泣いていたグロリアスな高校1年の夏である。もちろん下心しかない僕は、森博嗣が深いとか、コルツのマニングが凄すぎるとか、自分がカッコいいと思う話題を湯水のごとく提供していたのだが、今思い返すと、エスプレッソ用のカップに薬缶で麦茶を注ぐような無粋さに赤面する。それでも、彼女は「ふーん、そうなんだー」と優しく話を聞いてくれた。高校野球の気違いな練習量や厳しい上下関係に多少嫌気がさしていた僕にとって、その女の子との時間が唯一の救いの時間だった。

一度だけその女の子と夏祭りに出かけたことがある。夜の河川敷にレジャーシートを敷いて、二人で寝そべって花火を見た。

一組の花火が終わって、次の花火が打ちあがるまでの間、僕たちは流れ星を見た。たくさんの流れ星が消えていった。本当にたくさんの流れ星だった。僕は一生分の流れ星をあの時に見たような気がする。その時の願い事はなんだったんだろうか。それが卑猥なものでなかったと信じたい。

そんなロマンチックな夜に、下心は溢れちゃうBe in Loveであり、キスのひとつでもしたかったのだが、無類のチキンガイである僕は「きれいだねー」と間の抜けたことを言うだけで、そのままバイバイしてしまった。帰り道でつないだ手は、夏なのに暖かくて気持ちよかった。

結局その女の子とは日々の生活の違いから(実際のところは薬缶から注がれる麦茶に嫌気がさしたのだろうが)次第に疎遠になって、自然に連絡をとらなくなってしまった。当然ながら僕の神社へのランニングも終わりを告げた。

苦いのか甘いのか分からないよく思い出だが(読んでくださっている方にとっては本当になぜこんな文章を読まされるのかよくわからないであろうが)、今でもふとした時にその光景が蘇ることがある。

思い出に浸るわけではないが、こんな思い出の数々が忙しい毎日でも、僕が狂うことなく生き続けられる支えになっているんだろうなと最近よく思う。

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鴨都波神社は奈良県の中西部、御所市にひっそりと佇む神社である。

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その起源は飛鳥時代よりもさらに古い崇神天皇の時代に遡る。古代の大豪族・鴨氏の氏社であり、京都の賀茂神社(上賀茂神社下鴨神社)をはじめとする全国のカモ(鴨賀茂加茂)神社の源流の一つとされている

鳥居、社殿、社務所がいい雰囲気に配置されたコンパクトな境内だが、神社特有の蜘蛛の巣が張ったような感じは一切なく、清潔感のあふれる佇まいから、この神社が町の人にとって大事な場所であることがわかる。

この鴨都波神社の夏と秋の大祭では、五穀豊穣・家内安全・無病息災を祈願して「ススキ提灯献灯行事」が行われる。

秋田の竿灯をこじんまりとさせたような形のススキ提灯が、夜の境内に続々と入ってくる。

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持ち手は歩くのも精一杯のおじいちゃんから、筋骨隆々の若者まで様々だが、集落が一体となって大事にススキ提灯を自分の地域から神社まで運んでくる。すっかり暗闇に包まれた境内に提灯の明かりが一杯になる様は、初めて見る光景のはずなのに、どこかしら懐かしさを感じる。

時刻は夜8時、境内がススキ提灯で一杯になったころ、太鼓衆の太鼓が響く中ススキ提灯の練り回しがはじまる。自治会単位で所有されているススキ提灯を各自治体ごとに手に乗せ肩に乗せ、走り回りとてもエキサイティングな演技が披露される。自治会ごとに演技の質には差があり、おじいちゃんばかりが持ち手の自治会や、若い持ち手であっても技術に難のある自治会があり、地域の高齢化の状況やつながりの濃度が散見されて興味深いものだった。

1部2部に分かれた自治会の練り回しが終わると、若衆会の登場である。太鼓のリズムが変わり、周囲の期待の空気が高まったところで、高校生にも見える若者達の演技が始まった。これまでの演技とは全く違う迫力で、重さ15キロのススキ提灯をいとも簡単に振り回し、二人の

演者が回りながらぶつかる寸前に回避したり、いとも簡単に投げ飛ばしたりする。

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それはもはや祭りの行事の域を超えたプロの技であった。一体どれほどの練習を重ねたのであろうか。各人仕事もあるなかで、この練度を保っている伝統行事は僕は他に知らない。

今回がデビューの演者もいたのだろうか、引退したベテランとおぼしき人がしきりに励ましながら安全確保の警備をしている姿が印象的だった。

最後に神輿を若衆会が曳き回して祭りは終わりを迎える。

パラパラと町の人が家路につく中、本殿の前には昔話を小学生に伝える老人がいた。

「あいつが初めて提灯を持ったときはね…」

子供たちの顔はキラキラしていて、まぶしくて目をそむけてしまった。

帰り道には、浴衣を着ておめかしした女の子と、Tシャツの男の子が手をつないで歩いていた。

二人の顔は少し紅潮し、提灯と一緒に神社を染めていた。

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神社は常にそこにある。過ぎ去っていくのは僕たちだ。

素敵な思い出を残してくれた神社に僕は何ができるだろうか。

きっと何もできないだろうなという無力感を感じつつも、頭に浮かぶのは3歳の長男と生まれたばかりの長女がこれからどんな場所で素敵な思い出を作っていくだろうかということだった。

自分のいい思い出となった出来事が、子供たちのいい思い出となる出来事だと考えるのはエゴイスティックだが、それでも僕はそんな場所を子供たちに残したいと思うエゴイストである。

飛鳥大仏

最近褒められたのはいつですか。

私は、怒られた記憶はいくつかあるが、褒められた記憶というのは、

ずいぶんさかのぼらないと思い出せない。

野球をしていた頃は、グローブを投げつけられたり、胸を思い切りグーパンチされたり、たくさん怒られたものだが、その分いいプレーをした時には褒められたものだ。

※ 最近の高校野球の行き過ぎた指導への反発の声を受けてか、先日偶然に結婚式で出会った当時の野球部の監督は、「高校時代に俺から受けた仕打ちを誰にも言うなよ(笑)」と、冗談を言った。私は当時こそ、幾度か反発したものの、今となっては、監督に指導された一つ一つが私の血となり肉となっている実感がある。監督の寂しそうな背中を見ると、たくさんの声はあれど、高校野球から厳しい指導を奪わないでくれと個人的には感じてしまう。

今の私が褒められなくなったのは、私の職業上しようがない部分がある。

公務員という仕事は、皆さんの「あたりまえの生活」を維持することが、何よりも求められる。「あたりまえの生活」を送っている人は特に声を発しない。「あたりまえの生活」が破壊されたときに、大きな非難とともに我々に声が投げかけられるのだ。

縁の下で「あたりまえの生活」を維持しながら、サンドバッグのようにボコボコに殴られる、相撲部屋の柱のような存在だ。

と、ここまで様々書いたが、私は今の仕事に不満があるわけではない。要するに、怒られはするものの、褒められる機会が少なくなったという客観的な事実を述べたかったのだ。

 

私には3歳になる息子がいるが、子供というのはすぐ体がかゆくなり、皮膚科のお世話になる。

先日、妻にお留守番をしてもらい、息子を皮膚科へ連れて行った。そこの皮膚科の先生は大変厳しいお方で、前回来た時よりも息子の皮膚が悪化していたため、たいそう怒られた。

また怒られた…しかも私生活で…とご褒美にドーナツをかじる息子を横目にじわわと涙をためて帰宅した。

その2週間後、我々夫婦(9割方妻)は、必死に息子にクリームを塗りたくり、息子の皮膚はかなり改善したような気がした。またしても、妻に留守番をしてもらい、息子を皮膚科に連れて行った。なぜだか待合室では私が緊張した。

「阿部○○さーん」

息子の名前が呼ばれた。おそるおそる診察室に入り、先生に息子の腹を診てもらう。

「…阿部さん…頑張りましたね♪」

先生は満面の笑みで言った。それがお褒めの言葉であることに数秒間気が付くことができなかった。そして私はなんだかじわわとしてしまった。

このツンデレ女医め。

 

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飛鳥寺は奈良県の真ん中付近、明日香村にあるお寺だ。蘇我馬子が作ったお寺とされ、その歴史は1400年以上である。

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その飛鳥寺のご本尊は飛鳥大仏と呼ばれる仏像で、東大寺の大仏よりずっと昔に作られた。

この飛鳥大仏は、仏教が日本に渡来した当初に造られたものだけあって、どこか異国の雰囲気を感じさせる(法隆寺百済観音などもそうだが、やはり仏像にもお国柄が表れるようだ。)。

この仏様のお顔は、飛鳥時代の仏像固有の微笑み、いわゆるアルカイックスマイルで、目は笑っていないのだが、口元の感じでなんだかとても優しく語りかけられている気分になる。

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飛鳥大仏は推古天皇の時代に渡来人によって作られた。

飛鳥寺のご住職の植島さんは、

「難しい時代になっているのはわかりますが、日本に仏教が広まり、文化が広まったのは、中国・韓国から来た渡来人の方々のおかげであることを日本人は忘れるべきではないと思います。」

とおっしゃっていた。

飛鳥には、日本という国の黎明期がどんなに国際性があって、文化的受容性があったかを感じさせる空気が流れている。

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私は、初めてこの大仏様のお顔を見たとき、なぜだかツンデレ女医の顔を思い出した。

大人でも褒められるってうれしいことなんですよね。

褒められないのが当たり前になって、そうすると自分でも他人を褒めることができなくなって、どんどんギスギスした関係になってしまう。ささいなことでも、お互いに褒めあえる人間関係を作って行きたいですね。

だから、今後私に接してくれる人はできるだけ私のことを褒めてください。